吉田・関戸・尾坂の史跡(尾坂地区)

ふるさと吉田の史跡を巡る資料として、30年前に笠岡市吉田公民館で発行した「ふるさとよしだの史跡」をもとに、テキスト化しました。
こちらは「尾坂地区編」です。

目次

尾坂地区の史跡一覧

尾坂地区の史跡です。ご覧ください。

西の谷の廃寺跡 尾坂池の北側

尾坂池の北側にあたる天王山とよばれている山頂近くに古寺の跡がある。5間×5間の本堂と思われる礎石と、僧房と思われる礎石があり、出土した土師器(はじき)、磚(せん)などから、およそ900年前平安時代後期の寺跡と推定される。市内の同時代の寺跡としては、西大島「御嶽山量剛寺跡」(市指定史跡)がある。

西の谷のみちしるべ

西の谷川上商店の前にある。
「北どうまん」「東かもがた道」「西ゐはらやくし道」と刻まれている。裏側には「大正元年11月佐藤捨松」とある。1辺20センチメートル、高さ35センチメートルの石柱。

石橋再造碑

前記西の谷のみちしるべの横にある。
高さ約50センチメートル、幅約35センチメートルの石柱の左に「嘉永5壬生(1852年)3月吉日立之」と、石橋を再建した時期が記されている。前面の中央上部に「石橋再造 人夫合力村中一同」、下部に「施主 佐藤利吉 同庄八 西山岩吉 石井幸介 高田惣右衛門 同馬介、同玉右衛門、坂本為義」とある。

尾坂小学校跡 小字助政413の2番地

石井○○氏宅上に、明治12年7月、尾坂小学校が設置された。その後大正14年12月、現在の幼稚園があるところ(宗広1987番地)に、学校が新築されるまでの46年間この地に小学校があった。

焼山寺

前記の上の山林の中にある。
この地に四国八十八ヵ所12番焼山寺を勧請(神仏の霊を分け移して祀ること)した。本尊虚空蔵菩薩座像は、高さ約60センチメートルを薄肉彫にし、側面に天保3壬辰(1832年)6月吉日と記されている。
並んでもう一体の石仏があり、両台座の全面に50数名の施主が刻んである。前庭に1.5間×3間のおこもり堂がある。

石造地蔵菩薩 向井

藤井○○氏宅の上、道万道の北側に祀られている。高さ1.6メートル、単弁蓮座上に立つ半肉彫立像で「天保12年辛丑(1841年)暮春」と記されている。像の前に「奉献道路記念、大正4年坂本吉恵 佐藤捨松」と刻まれた花筒が奉献されている。毎年9月の祭日にはお接待がある。

尾坂川の水車跡

古くから米つき水車と二、三の粉ひき水車があったようだ。明治中頃、鴨方から手延べそうめんづくりの技術が導入され、阿部山からの豊かな水流を利用した製粉専用の水車が次々に設置され、最盛期の大正から昭和初期には20基以上に達した。それと共に冬の農閑期の副業として、そうめんづくりも盛んになり、従事する戸数も約100戸を数えられ、また同業者の組合も結成されていた。当時、尾坂のそうめんは、「極寒製手延そうめん」として好評を博し、京阪神はもとより沖縄、北海道方面まで出荷され、農家の現金収入に役立った。戦後、電動製粉設備にかわったため、水車製粉は数年をまたず衰退し、昭和40年頃最後の水車がとりこわされて消滅した。いま、ところどころに導水路や滝つぼのあとも見ることができる。

小丸山城跡 道万

尾坂惣右衛門の居城の跡と言われている。(土井のうねの五輪塔群の項を参照)

製鉄遺跡 賤ケ

 平成2年12月笠岡市文化財保護委員会により確認調査が行われ、およそ1,000年前頃の製鉄炉の下部構造であることが判明した。横72センチメートル、高さ42センチメートル、奥行62センチメートルの箱型でほぼ完全な形がのこっており、備中南部の古代製鉄遺跡として注目される。

道満屋敷

 道万石井谷三叉路北の山林の中にある。元禄年間(1600年頃)新賀の吉岡道貞著の吉備物語という本に道満について次のように記されている。
「…当国小田郡尾坂村の上の谷を過て阿部山を十町計り奥へ入て谷川の西側に道満屋敷あり…」と。現在その所に、方50センチメートル、高さ60センチメートルほどの石があり、お稲荷さんを祀っている。芦屋道満と安倍晴明は、平安時代中頃、占術をきそいあい、朝廷の陰陽博士の座を争ったといわれている。両社の伝説は関西各地にあって、金光町占見にもある。

林道開さく記念碑

 石井谷三叉路にある。
碑文に「阿部山林旧八箇村入会地也…大正2年分割議起紛争不決、超而至昭和2年分割議漸決所属決定…」とある。この碑文の遠因を略記する。碑建立より75年前嘉永6年(1853年)入会地内で事件が発生した。小坂東村名主壮平が多数の人夫を動員して入会地内に溜池を築き開墾を始めたため、同じ入会権をもつ甲弩、淺海、走出等の村役人が領主一ツ橋家の七日市陣屋を通して、鴨方池田藩の陣屋へその中止を強く申し入れたが解決せず、山上の現場では双方の百姓達による乱闘騒ぎが起き、怪我人も出るに至った。その後双方の度重なる掛け合いが行われるが一向にラチが明かなかった。一ツ橋領地の村名主等は幕府の裁定を仰ぐこととして、同年12月代表が江戸に出府して幕府寺社奉行所に訴訟状を提出した。準幕領一ツ橋と鴨方池田藩との争いとなった。双方はるばる江戸まで召し出されて互いに申し立てを繰り返すが裁定は下されず、結局近隣村々の名主を仲裁人として和議を依頼、開墾取りやめを条件に翌7年2月熟談、内済証文をとり交わすことによって、7月双方江戸に上り和議成立の証文を奉行所に提出して一件落着となった。以上のような経緯をうけての分割であったため、事件を起こした壮平が名主を兼ねていた尾坂はかなり不利な境界線設定をのまざるを得なかったようだ。
・入会地
数ケ村で規約をつくり、牛飼場、肥草、薪などを刈り取る土地。
・八ヶ村
江良、淺海、走出、甲弩、山口、新賀、尾坂、小坂東

阿部山の経塚(注5)

兼高氏宅西の尾根南面にある。盛られていた教石は一部盗難にあったが、残りは市郷土館に収蔵されている。

阿部山の古代遺跡

およそ1万年前、まだ四国と陸続きであった先土器時代と呼ばれる頃から5,000~2,000年前の縄文、弥生時代にかけて人が住んでいたようで、その人達が使用した「サヌカイト」と呼ばれる石で作ったヤジリ、ナイフ、サジ等の石器やその破片が採取されている。ことに弥生時代中頃約2,000年前には、山上近くの谷々に流れ出る水を利用して原始的な水稲作りが行われていたことが出土している多数の各種の土器片から知られ、狩猟と米作りをして生活していた人達の「ムラ」ができていたことが想像される。

廻国記念碑(注1)

 尾坂バス停の上、大師堂の横にある。
碑には、「奉納」「天下泰平 当村」「大乗妙典六十六部日本廻國供養」「日月清明 願主徳治郎」と刻まれている。碑の右側に「文政5年(1866年)3月28日」と記されている。

岡の端の大師堂

尾坂バス停の上にある。
結界「明和元甲申(1764年)霜月廿一日」一間四面のお堂のほとりに万人講亡牛供養碑が10ヵ所以上建てられている。村内で牛が死亡すると、万人講をつくり、大勢の人から見舞金を集めて飼主におくるならわしであった。飼主は代わりの牛を買う足しにできたので、お礼をふくめて亡牛の供養碑を建てた。道しるべを兼ねた碑も各地に見ることができる。

土井のうねの五輪塔群

約400年前尾坂を支配した尾坂惣右衛門一族の墓地といわれている。惣右衛門は豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年)にあたり、小早川隆景配下の備後舟手衆として出陣し、毒矢をうけて討死したという。墓石中の「宝きょう印塔」に信誉道雲禅門と戒名が刻まれている。領主の供養のために建立されたものだろう。ここを「阿弥陀堂」とも呼んでおり、付近に供養の経石が散見される。

艮(うしとら)神社

祭神 大吉備津彦命 若建吉備津彦命
創建 平安時代末期永承年間(1046年)という
再興 寛文11年(1672年)霜月(棟札現存)
再興時の神職川上新左衛門重益(社家川上氏の祖)は山口村長福寺の住職であったが、山口村は池田光政の生母福照院の化粧料の地であったため、大師谷の福蔵坊同様淘汰されたので遷俗して神職となり艮大明神に奉仕した。山口八幡宮も兼務した。
本殿 明治13年11月2日再建
釣殿、幣殿、拝殿、隋神門等は明治45年より大正年間にかけて改築された。

地神さま(注2)

艮神社奥宮の横にある。
この地神はもともと仁後の古宮といわれる三叉路に建っていたが大正年間に現在地に移された。この地神は建立年号を刻むため六角柱となっている上に、それぞれの神の上に、金剛界曼荼羅成身会五仏の種子(梵字)を冠しており神仏混淆を示す珍しい形をしている。

天保13年(1842年)寅8月建之 邑中
(キリク)埴安媛(はにやすひめ)命
(阿弥陀如来 西)

(ア ク)稲倉(うがの)魂(みたま)命
(不空成就如来 北)

(バ ン)天照大神
(大日如来 中央)

(ウ ム)大己(おおな)貴(むち)命
(阿閦如来 東)

(タラク)少彦名(すくなひこな)命
(宝生如来 南)

大師谷の寺院跡

岡山大学図書館の池田家文書の中に「備中國小田郡尾坂村大日寺福蔵坊は小田郡笠岡村遍照寺末寺で寛文6年(1666年)廃寺となる。ご本尊地蔵菩薩は村内に一間四方のわらぶきの堂を建て安置する。また寺地山林は同村四郎太夫が作廻する…」という記録がある。当時尾坂村は、岡山池田藩の領地で、領主光政は儒教を中心とした政治をするため、仏教を排斥し、領内村々の寺社の整理、統合、淘汰を行った。
この時期に大師谷の寺も淘汰されて廃寺となった。尾坂村の住民の旦那寺であった福蔵坊がなくなった後の葬祭は、安養寺の檀家となる元禄元年(1688年)まで、儒教式の葬祭が行われ、仏式の戒名ではなく生前の氏名による墓石が二、三の墓地に見える。いずれも村の有力者の墓といえよう。

亀居古墳

亀居・筒井○○氏宅裏にある。
(6世紀末―7世紀)円墳
入口羨道(えんどう)(墓の道)部分がくずれているが、奥壁に据えられている鏡石は一枚岩で1.8メートル×2.1メートルと巨大で、5個の天井石も大きく、市内の円墳中でも上位に属する。幅1.65メートル、高さ2.2メートル。遺物はない。(笠岡市の文化財より)

聟(むこん)田(でん)古墳(亀居古墳と同時代)円墳

墳丘径約10メートル、遺体を葬る玄室の長さ6.3メートル、高さ1.2メートル、入口幅1.47メートル、奥幅1.3メートル、羨道(えんどう)の長さ1.2メートル。
片袖式古墳で築造当時の形をよく残している。遺物はない。

聟田中塚古墳

聟田池のほとりにあったが古墳跡として巨石を少し残すのみで全壊している。
(笠岡史誌上巻より)

大人(おおひと)伝説

「尾坂南、妙見山才古池付近」と、「阿部山、雄高、雌高の南、阿部山に登る最後の橋から100メートルほど前を右に登ると湿原がある」、この二ヶ所を大人(おおひと)の足跡と呼んで言い伝えられている。
阿部山と妙見山4キロメートルを、ひとまたぎにして大人(おおひと)が通り過ぎたという。
二つの山を跨いだ大人のフグリがふれたというところに氏神様が祀られている。

強力尾坂源八(1)

むかし、備前岡山城の正月に飾られる門松2本は、毎年尾坂から献上されていた。お城の門に立てられるので、門に似合いの大松であった。二人で1本かつぐ程の松を、源八は2本束ねてかついで朝暗いうちに尾坂を出発し、岡山まで50キロメートルの道を韋駄天のように走り、岡山城に届けてその日のうちに尾坂に帰ってきたそうである。

強力尾坂源八(2)

ある年源八がお四国を巡礼して阿波の国を通っていると、大勢の人が集まっていた。近づいてみると、阿波一番という力持ちが米俵を二俵重ねてさし上げ、獅子が口を開くといっては俵をパクパクと開けて自慢していた。それをみた源八は、「なんだ、阿波の獅子には舌がないのか」「備中の獅子には舌があるぞ」「なんならお見せしようか」と、俵を3俵重ねて軽々とさし上げ、俵をパクパク開けて「どうじゃ備中の獅子を見たか」といいながら又俵をパクパク動かしたので、見物人から大喝采をあびたという。

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