吉田・関戸・尾坂の史跡(関戸地区)

ふるさと吉田の史跡を巡る資料として、30年前に笠岡市吉田公民館で発行した「ふるさとよしだの史跡」をもとに、テキスト化しました。
こちらは「関戸地区編」です。

目次

関戸地区の史跡一覧

関戸地区の史跡です。ご覧ください。

八幡山古墳 関戸字八幡山根

関戸では唯一の古墳で、八幡神社の西麓に位置している。石室の奥行き5.3メートル、幅1.4メートルで入口は埋もれて入れない。高さ4メートル、天井石は4個使用してあり、出土品として残されているものは何もない。
(笠岡の文化財より)

関戸廃寺跡【県指定史跡】

昭和38年8月1日指定
このあたりの水田から古瓦が出土することは古くから知られていた。

調査は、昭和37年12月10日から6日間、鎌木義昌氏が担当し間壁忠彦、葭子両氏があたり関戸地区の方々の助力を得て行われた。その結果、一辺11メートルの石積の基壇の中心に南北を指す長辺2.65メートル、東西を指す1.95メートル、厚さ0.6メートルの巨大な塔の心礎が原位置のままの状態で検出され(県下第一位)心柱の直径は1メートルに及ぶものと考えられている。

塔の基壇の外周から多数の瓦、銅製の相輪の一部が出土し、軒丸瓦、軒平瓦はその特徴から奈良時代前半の白鳳期(630年)より天平期(750年)頃にわたるものと確認された。天平13年(741年)聖武天皇の詔により国分寺、国分尼寺が全国に建立される以前に五重の塔が南面して建立されていたことがうかがわれる。更に巨大な伽藍が建っていたもう一つのあかしは、戸川家に保存されていた瓦製の鴟尾(注4)(一部欠損)及び森田美穂太氏が発見された同小片である。飛鳥時代から平安時代にかけて寺院の大屋根の両端に用いられたもので、県内では真庭郡久世町の五反廃寺にだけ出土している。寺域及び伽藍については、塔以外の遺構不明のため水田の畦畔の形などから、わずかに推定するにすぎなかったが、農協支所の倉庫下より柱株が発見され、位置として中門であることが判明した。又昭和54年心礎の真東50メートルで宅地造成に伴う発掘調査で、溝、柱穴群、基壇状遺構が検出され寺域内である可能性を示した。なお平成4年12月初旬、宅地造成による緊急発掘調査で心礎真西36メートルの所から南北線上に軒丸瓦その他が多量に検出され、塔、金堂、講堂をかこむ回廊と推定される遺構が検出された。

これらの調査遺構により東西約100メートル南北およそ150メートルの寺域をもつ大伽藍が、杉の花の丘の南面に建っていたことがうかがわれる。

何の文献もなく、建立した人物は不明であるが、長福寺裏山古墳群にねむる首長たちの末裔が建てた寺院とすれば、有力氏族として笠氏を造立者と考えられないだろうか? 平安時代末頃焼失したものと考えられている。

なお軒丸瓦のなかに、大和の山田寺、飛鳥の川原寺の流れをもつ古代瓦があり注目されている。
(笠岡の文化財より)

遍照寺跡 関戸字南花繰峠

笠岡市仁王堂町へ移転する以前はこの地に遍照寺があったとつたえられている。(遍照寺は現在都市計画により笠岡市西ノ浜に移転している。)
天和〜貞享(1680〜1686)の頃記された笠岡遍照寺旧記の由緒書によると、「遍照寺は、陶山藤三義高の祈願所であり、元弘年中(1332〜後醍醐天皇の時代)吉田村から笠岡の城下に移す。と記されている。
瓦葺きの寺院だったのであろう、布目瓦が出土したとの話もあり、また今は山畑となっているが、望遠により参道と思われるものが認められていたと古老はいっていた。

八幡神社 笠岡市関戸30番地

主祭神 応神天皇
配祀神 素戔鳴命
境内社 稲荷神社、天神社、荒神社、金毘羅宮
建 物 本殿(3坪) 幣殿(5坪) 拝殿(14坪)社務所(現在倉庫8坪)
境内地 368坪
氏子数 85戸

沿 革
仁治3年8月(1242)創建、明治5年1月1日村社に列格、創建時は八幡山頂にあったが、明治12年移転改築の議が起こり、明治13年現在地を購入して土工を進め、21年5月から建築移祀に着手して、23年10月10日に移転完了した。明治45年5月神饌幣帛料供進神社に指定された。

関尾小学校跡

明治6年創立、関戸山ノ河内、大森茂氏宅屋敷にあった。畑3畝38歩、梁行3間、桁行6間、外に教員詰所があった。屋根はわら葺き。

笠岡八十八ケ所四十七番関戸観音堂

最初、馬頭観音を観音山に安置する。貞享3年(1686)山麓に移転再建。寛政9年4月(1797)吉日予州八坂寺より阿弥陀如来を勧請(諸仏、諸神の分神?分霊を請いうけて、他の場所へ移して祀ること。)して馬頭観音と合祀する。天保11年(1840)観音堂再建(現在地)。
再建は森田五郎左ェ門、その後の世話人は近蔵、紋四郎、甚右ェ門、縁日は8月10日とし、森田姓6戸で現在も護持されている。

薬師堂 関戸字山ノ河内1512-1

大森○○氏宅東
創建された時期はわからないが、薬師如来立像と阿弥陀如来木像を安置し、古くから土地の人の信仰の対象となってきた。
戸川家に「薬師堂再興勧化金書記、天保3年8月、関戸村1冊」との見出しの文書があり、その頃修復されている。明治11年5月に信者総代らが、時の岡山県令高崎五六に存置を願い出て認められ、以後信仰だけでなく土地の青年の集会にも活用されてきた。
しかし、老朽化がすすみ昭和58年1月16日に取りこわした際、12名の世話人を記録した板が発見され、その現住子孫8名が発起人となり再建を計画、地区民の勧化金により銅板葺の現堂宇が建立された。祭日には接待が行われ多くの人の参詣がある。

経塚跡 関戸字清水

石槌山麓の墓地の一隅にあった。出土した経石は、地元の人が蒐集保管していたというが、現在は不明である。
経塚付近には、かつて無尊堂という堂宇敷があり小字名となって残っている。
笠岡市内では、尾坂の阿部山、陶山の篠坂と関戸の三ヶ所で確認されているだけである。

岩崎の松

現在、尾坂池の池底に沈んでいる旧県道は、その昔玉島往来と呼ばれ、麻田藩領関戸村と鴨方藩領尾坂村との村境あたりに、見事な老松があったと伝えられている。
この松については、続後撰集賀歌の中に前中納言経光の歌として「末遠き千代の陰こそ久しけれ、まだ二葉なる岩崎の松」が載っており、また俳人野々口立甫は「岩崎の松や新賀の若みどり」の句を詠んでいるなど、かなり有名な松で名勝地のひとつであったらしい。
その名松も何時しか枯れ果て、その跡といわれる場所も今は尾坂池の底に水没してしまったのを惜しんで、池沿いの県道縁りに松の木を植え「二代目岩崎の松」と刻んだ石碑が建てられている。

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