吉田・関戸・尾坂の史跡(吉田地区)

ふるさと吉田の史跡を巡る資料として、30年前に笠岡市吉田公民館で発行した「ふるさとよしだの史跡」をもとに、テキスト化しました。
こちらは「吉田地区編」です。

目次

吉田地区の史跡一覧

吉田地区の史跡です。ご覧ください。

吉川の観音庵

徳山○○氏宅の前にあるお堂。ここの本尊は、厨子に納まった木造・座像の観音様である。現在の堂は、昭和11年12月に再建され、昭和50年9月に大修理を施したと、堂内に記されている。

藤五郎池

藤五郎が、朝飯前に掘ったという伝説の池。延宝五年(1677年)の検知帳に次のように記してある。「池床 拾弐間 参拾六間 壱反九畝六歩 唐五郎池 是者古池二而 年数知不申候 但野池池床二成申候故分米無御座候」池の東の小高い丘を「神ノ木」といい、かつてはその他には「藤五郎神社」が祀ってあった。

仁吾のださぁさま(大歳神)

神島路の道辺、藤ノ木厄神谷の入口の常夜灯のある所の東側山手、現在、笠岡八十八ケ所の第七十七番の大師堂が建っている所の北手の広場にあった。地元では“ださぁさま”と呼んでいたが、正式名は「大歳神様」で、箱田山神社へ合祀されるまでは、拝殿や鳥居があったが、今は、鳥居の額石のみが残っている。近くに、古い自然石の墓石があり、松岡采女橘勝之墓と刻してある。又、厄神社と呼ばれた神社も、この南にあったが、現在は社も朽ち果てて形跡もない。大正の初期頃には鳥居の丸い石柱などが散在していた。

仁吾のやとうさん(1)

藤ノ木の園井超えの旧道沿いにある。自然石の組み合わせによるもので、高さ1.7メートル。棹の前面には、大峰・石鎚奉燈。左横面に、嘉永3庚戌(1850年)4月と読める。

仁吾のやとうさん(2)

徳山○○氏宅の前にある。自然石の組み合わせによるもので、高さは1.8メートルある。棹の前面には、金・吉と併記。下に、奉燭とある。金は金毘羅宮、吉は吉備津宮の事であろう。建立年月日は不詳。

仁吾(神ノ木)のみちしるべ

仁吾・森原○○氏宅裏の四ツ辻にある。1辺21センチメートル・高さ60センチメートルの石柱。正面中央に、右・指田観音道と記され、その右行には児島大師、左行には玉島、鴨方とあり、右面に大正元年12月、施主 白髪小市と記してある。

山の神のみちしるべ

旧徳山理髪店の前の三叉路の角にある。「右かさおか」「左こうのしま」「徳定・夫ノ年 願解」と刻まれている。建立の年は刻まれていないが、250年前「元文・寛保年間」に篤信家の今田慧弦によって開かれた神島八十八ケ所の巡礼者のために立てられたものであろう。ここより左に道をとれば、園井、今立、神島と最短距離で行くことができる。1辺18センチメートル・高さ58センチメートルの角柱。

山の神の廻国納経塔(注1)

故徳山○○氏宅の東、大師堂、地神さまと並んで建つ円柱。高さ1.8メートル。直径30センチメートル。 (ア) 奉納経 大乗妙典・六十六部供  養塔  天下泰平・日月清明。寛政10戌午歳(1798年)11月吉日。行者 本村在住 田村信実拝。

山の神の地神さま(注2)

山の神 故徳山○○氏宅の東北にある。五角柱で、正面は、天照皇大神宮、他の面は、正面から左周りに、
 (ウム)如来、  (阿閃如来)
 (タラク)如来  (宝生如来)
 (アク)如来   (不空成就如来)
 (キリク)如来  (阿弥陀如来)
建立年月日・嘉永7甲寅天(1854)12月吉日。施主・下惣氏子。 

大塚のお題目石

公会堂の西数十メートルの所にある。台座を含めた高さは、1.80メートルある。碑の前面には、お題目「南無妙法蓮華経」右面上段に2行に分けて、妙法廣布・四海静謐。左面上段2行に分けて、五穀豊穣・万民快楽。右面下段に慶応2丙寅年正月吉日。周囲の植木はいつも手入れが行き届いている。

大塚古墳(6~7世紀)

西山○○氏宅の西脇にある。奥行6.3メートル・幅1.4メートル・高さ1.7メートル。

大塚2号墳

1号墳の東脇にある。外郭 推定7.8メートル(天井石を利用して、西山家祖宗霊と刻んだ碑を石室上に立ててある。)

大塚の地神さま

大塚2号墳の西山家祖宗霊碑の西横に建つ。自然石 高さ0.96メートル。

大塚の荒神さん

牧原の小高い丘の上に社と鳥居が見える。鳥居の横に大きな自然石の手洗鉢があり、安政5戌午年(1858年)9月吉辰日と、6名の奉納者の字が読める。西山家一族の氏神さまとして祀られている。

大塚の妙見さん

牧原の西の山の中腹にある。まだ建立間のない2.5間四方のお堂の中に祭壇と10畳の拝殿があって、祭壇にあるお厨子の中に小さな妙見さんが納められている。

伝証山 長寿院 高称寺

寺伝によると文永年間(鎌倉時代)の開創という。元禄年中(1688~1703年)に本尊以外の全てを焼失する。現在の本堂は、宝永4年(1707年)の再建、庫裏は、昭和11年の再再建である。本尊は、阿弥陀如来、境内には、笠岡八十八ケ所の第三十四番札所、身替り地蔵尊などがある。現在は、東寺真言宗の未寺であるが、かつては大覚寺派で、笠岡・遍照寺の未寺であった。末坊(東坊・中坊・西坊)の名が、地名として残っていて、それぞれの末坊のあったと思われるところに、かつては多くの五輪塔が散在していた。

田平の六社権現(注3)

高称寺の東北、藪の上にある。かつては、高称寺の鎮守であったが、何時の頃からか田平組の神社となっている。明治43年の箱田山神社への合祀の時、鳥居、唐獅子、灯篭等が移設されている。現在は、本殿、拝殿と、天保5年(1834年)9月奉納の手水鉢と、安永7年(1778年)9月奉納の鳥居がある。田平東組の藤井○○氏宅の庭に、昔から「権現さまの井戸」とよばれている古井戸がある。毎年、村祭りの次の日が、権現さまの祭りとされていて子ども相撲などで賑わう。

田平のやとうさん

徳山○○氏宅の屋敷、西北隅にある。自然石の組み合わせによるもので、その高さは、2.5メートルある。建立年月日などの記載は何もない。この常夜灯は、元々、伝証山(高称寺)の山門の門前灯であった。この常夜灯の前の橋を渡ったところに、かつては山門が建っていて、近年までその跡地と、礎石が散在していた。

大の平の観音さん

鶴藤園芸本宅の西北の林の中に在る。比較的新しい堂の中に、身の丈55センチメートル位の船形石仏の観音さまが祀られている。地区の人々の熱い信仰を集めているようで、新鮮な花が供えられていた。。

大の平の廃寺「とうこう」坊跡

鶴藤園芸本宅の西北の山の頂に約1,000坪程の平坦地がある。昔、そこに寺院が在ったと伝えられ、「とうこう」坊跡と言い伝えられている。祭祀に用いられたと思われる「カワラケ」が多数出土している。

大の平の乳神さま

先大の平の藪の中にある。高さ64センチメートル位の石造の神体と、高さ27センチメートル位の脇神、2体が祀られている。最近まで、乳の出の少ないお母さんの信仰を集めていた。

大の平の武家屋敷跡

先大の平に300坪位の屋敷跡がある。落ち武者が、住んでいたという伝承があるが、その子孫がどうなっているか、はっきりしない。この屋敷の東方に30基位の墓石群と、さらにその東には、五輪塔群がある。

大の平古墳

田平下池の上にある。奥行き3.5メートル・幅1.45メートル・高さ1.35メートル。

乳母が懐古墳

大の平古墳の上、山の中にある。奥行き3.5メートル・幅1.6メートル・高さ1.3メートル。

龍王の厄神さま

龍王山の新墓地の東上にある。元は、現墓地の入り口あたりにあったが、墓地造成の時に今の所へ移転されたものである。昔、この地に疫病が蔓延して、多くの人々が苦しんだ。そこで、地区の東西の端に厄神さまを祀り、疫病平癒を祈ったのだそうである。東のものは、現存しない。

龍王の五輪塔群

龍王山の西裾に新しくできた墓地の無縁仏の寄墓へ、地区内のあちこちにあった五輪塔が集められている。大小様々な五輪塔がある。

龍王の荒神さん

真砂○○氏宅の入り口に祀られている。台座の上に、高さ1.18メートルの社に、御神体として、神鏡が祀られている。

龍王さん

龍王山の頂上、テレビ塔の西、数十メートルの所に祀られている。龍王さんは、雲を呼び、雨を降らすと信じられ、請雨法の本尊として祀られることが多い。高さ1メートル位で、2段重ねの屋根付きの石碑が、石組の上に立っているが、残念ながら碑文は、文字の痕跡はあるが判読できない。山頂までの参道はきれいに整備されていて、地区の人々の熱い信仰がうかがえる。この参道沿いに、四社大明神、金毘羅さん、十二神さんが祀られている。伝承によると、龍王山山頂は龍王城址であるといわれとぃる。近年まで、城内にあったと思われる、立派な古松(唐笠松、うで松、きかん松と呼ばれていた。)があった。又、付近に八畳岩といわれている巨石があり、その東方には、塚跡もある。

石井村長彰徳碑

石井村長彰徳碑は、当初旧吉田村役場前庭に建てられた。後、同所に農協吉田支所が置かれたため、碑は、吉田小学校講堂前に移設され、さらに、平成元年、吉田公民館が建設された際、公民館前庭の現在地に移された。石井村長が、郷土発展のために尽くされた偉大な業績を刻してある。建立は、昭和13年8月殻旦と、ある。

山の神の阿弥陀堂跡

万五郎橋から吉田小学校前交叉点までの学校用地あたりの小字名を「阿弥陀堂」という。その昔、この地に阿弥陀堂があったが、その阿弥陀堂の地に、明治33年に吉田小学校が建設され、後、北校舎増築の折、今もその姿を残す楠の木の東あたりにあった阿弥陀堂は撤去された。その阿弥陀堂に祀られていた石仏―阿弥陀像は、山手の墓地へ移設されている。

万五郎橋

小林薬局の南、およそ20メートルの所にある橋。天保年間(1830-1843年)とおもわれる絵地図に「万五郎橋」と記してあるが、それ以前の架橋かも知れない。万五郎の尽力によってできたもので、恐らく、それまでは土橋であったものが、石橋になったのではないだろうか。

土井ケ市のやおいとうさん

土井ケ市の公会堂の西にある。自然石を組み合わせた高さ3メートルのもの。棹の正面に、奉燈・吉備津宮、金毘羅宮、裏面には建立・明治21戌子4月と記されている。

土井ケ市の地神さま

土井ケ市の公会堂の横にある。自然石、高さ1.3メートル。建立は明治37年3月と記す。

吉田小学校跡

明治6年、本村に初めて吉田小学校が藤之木(現在の土井ケ市藤井○○氏宅付近)に設置された。明治32年に一時、高称寺を仮校舎とし、新校舎の建築が始められ、明治33年現在の地(吉田2,383番地)に新校舎が完成した。同年10月17日、落成式が挙行され、この日が、現在も創立記念日となっている。

土井ケ市の薬師庵

土井ケ市の上、岡の墓地のなかにあるお堂。本尊は、木造・座像の薬師如来、光背も痛みが少ない立派な仏像である。日々、熱心な信者のお参りがあるようで、いつも掃除が行き届き、お花、線香がおまつりしてある。現在の堂は、昭和9年5月再建と、棟札にある。

土井ケ市の廻国納経塔

岡の薬師庵の前に建つ。1辺18センチメートルの角柱が三本ある。
1)正面   (キリク・サク・サ)奉納 大乗妙典日本廻国。右面・安永9庚子(1780年)9月19日。左面・佐渡国羽〇郡徳和村、行者 了〇。高さ1.54メートル。
2)正面   (キリク・サク・サ)奉納 大乗妙典日本六十六部廻国供養 右面・天明元辛丑(1781年)10月吉日。左面・當村行者 利竹。高さ1.7メートル。
3)正面   (ア)奉納日本六十六部廻国供養塔 安清禅定門。右面・安永2癸巳年(1773)左面・3月吉日。高さ・1.27メートル。

エヒメアヤメの自生地(市指定天然記念物・昭和31年)

九州、四国、中国地方の、ごく限られた地域で、低い山地に自生する。ここ吉田地区が、世界における東限地帯であると学者はいう。箱田山神社の南の山裾に自生するが、今はほとんど見られない。アヤメ科の多年草で、10センチメートルのかれんな花が、4月中旬頃咲く。1週間から10日位の短い花の命である。

箱田山神社

主祭神 吉備津彦(きびつひこの)命(みこと)、上津(かみつ)綿津(わだつ)見(めの)神(かみ)、小彦(すくなひこ)名神(なかみ)、素戔鳴(すさのおの)神(かみ)、大歳(おおとしの)神(かみ)、応(おう)神(じん)天皇(てんのう)、
配祀神 大山積(おおやまずみの)神(かみ)、若年(わかとしの)神(かみ)、神(じん)功(ぐう)皇后(こうごう)、市(いち)寸(き)嶋(しま)姫(ひめの)命(みこと)、多紀(たぎ)理(り)姫(ひめの)命(みこと)、多紀津(たきつ)姫(ひめの)命(みこと)、中津(なかつ)綿津(わだつ)見(みの)命(みこと)、底津(そこつ)綿津(わだつ)見(みの)命(みこと)
境内社 火産(ほむす)霊(び)神社(じんじゃ)、荒神社(こうじんしゃ)
建物 本殿、幣殿、拝殿がある。
境内地 517坪
沿革 創建年月日、由緒は不詳。延宝5年(1677)の地検帳、小田物語や、本殿再建が嘉永元年(1848)とする古録からすれば、かなり時代は古いと思われる。古記録によると、この地の神社は一の宮大明神(地区の人々は森脇大明神と呼んでいた。)が祀られていたが、明治43年村内の諸神社(吉川の八幡神社、田平の六社権現、迫の天神社、山手の荒神社、仁吾の太蔵宮等)が合祀されて、この地に、村社―神餞幣帛料供進神社―箱田山神社が祀られることとなって現在の形となったものである。したがって、鳥居、唐獅子、常夜灯、灯籠等にある地区内各地の寄進者の多くはこれらの諸神社への奉納者名である。また、主祭、配祀神が多いのも、このためである。現在、当神社の「お祭り」は、春と秋2期に行われているが、5月14日、「春祭り」として催されている例祭は、この合祀を記念して「合祀祭」としての「お祭り」であった。

宮地の地神さま

宮地の公会堂の横にある。自然石、高さ1.06メートル。

平木のやとうさん

宮地池の下池の土手にある。自然石を組み合わせた高さ3.6メートルもある立派なものである。棹の前面に、一品吉備津宮・金毘羅大権現・奉燈、裏面には、安政4丁巳年(1857年)、台座に三組中と記されている。

岡部古墳

旧石井氏、現 林氏の屋敷の裏にある。奥行き2.6メートル・幅1.4メートル・高さ1.78メートル。石室内に魔利支天を祀る。(民間信仰では、勝負の守護神とされ山伏等が祀っている。更に家とか、株内の守護神としていることが多い。そのため古墳内によく祀られている。)

法泉寺の安産観音

法泉寺集落の山際、小池の奥に笠岡八十八ケ所の大師堂と並んで建つこし堂の中に祀られた木造の観音さま。何時のころから祀られていたか判らないが、この観音さま、時々このお堂を留守になさる。昔から、安産のお守りとして、お産の折、人目に付かないように、そっと抱き帰り、お産が済むと、又元へ戻して祀られるということである。

山手の地蔵堂

大西屋の東にあるお堂。本尊は、木造・座像のお地蔵さんである。毎年8月23日に、講内で地蔵講が営まれる。

山手の廻国供養塔

山手の大西屋の東、地蔵堂の前にある。自然石で、高さ1.03メートル。正面・奉供養日日本廻国。右の行上段・天下泰平、左の行上段・国土安全、右の行下段・本村産、左の行下段・行者廣之助。左面・享和3癸亥(1803年)10月吉日。

四国八十八ケ所巡拝記念碑

山手前の大西屋の東、地蔵堂の前にある。自然石で、高さ1.24メートル。正面上に弘法大師座像、その下に奉納四国八十八ケ所○○(以下判読出来ない。)左面にも、記載の後があるが、判読出来ない。四国巡礼は今と違い命がけの巡拝だったので、その満願には記念碑を建立して供養した。

山手のやとうさん

山手前の小西屋の西にある。自然石を組み合わせたもの、高さ2.5メートル。棹の前面に、右から、吉備津宮・金毘羅宮・地神宮 献燈、世話人 当組 若連中 建立・天保2年(1831)3月吉日とある。

山手前の地神さま

小西屋の西の夜灯の横にある。自然石、高さ0.75メートル。

山手の観音堂

山手中の橘高氏宅の下のお堂。中に祀ってある本尊は舟形石仏で立像正観音が彫ってある。石仏の高さ50センチメートル、台座の高さ21センチメートル、その台座に「當村・世話人 仁科興吉石田仁吉」と記されている。外に、1本彫りで虫食いの激しい観音さまとおぼしき木像(高さ80センチメートル)が1体と、木造の観音さま(高さ70センチメートル)1体、木像の地蔵さん1体がある。毎年8月17日には、講内で観音講が営まれる。

山手の荒神社跡

山手字東山(現在、大型の五輪塔の建っている地の上)の地に箱田山神社へ合祀されるまで荒神社が祀られていた。境内には、宇津神社も祀られていたようであり、又、経塚の跡と思われる跡もあったようだ。(戦後、開墾されて、その跡を止めない。)五輪塔もこの境内にあったものが開墾の時、下へ降ろされたものである。荒神社建立以前は、この地には寺院があったのではないかと思われる。

山手の五輪塔群 三基

昭和50年、付近に散在していたものを、この地へ復元したもの。この場所は、荒神社のあった所で、経石らしきものも見える。「備中小田物語」に、“吉田村の頃。むかし、むかし笠岡領か。陶山祈願所、遍照寺、代々の廟所、石塔、当村にあり、その所を「どうし」といへり。”又、「吉備物語」には“陶山藤三の頃に、陶山藤三義高、先祖いまだ知れず、初めは吉田村に住けるにや、屋敷跡、又「とうし」とて代々の墓印、石塔有。盆には笠岡・遍照寺の僧来たりて、近き頃まで魂祭りし侍るとぞ。”とある。「どうし」「とうし」という所は判然としないが、現在の関戸団地の上の小池付近に、布目瓦が、散見され、古くから遍照寺跡といい伝えられていることや、この五輪塔の形から、南北朝時代(約650年前)をあまり下らないと推定されるので、上記の両物語の記述などから、陶山氏一族にかかわる五輪塔ではないかと考えられる。

木勢以の五輪塔(市指定石造美術品)

高さ1.38メートルの花崗岩製で、戦国時代末期の武士の墓。この地に住んでいた徳田氏小田氏などの先祖墓と伝えられている。徳田氏の旧記によれば、尼子の家臣鈴木四郎重則が主家尼子氏滅亡後この地にかくれ住み、徳田万五郎と名乗り農業をしながら主家の再興を願っていたが、元亀(1572年)52才で病死した。その子四郎重成が亡父の七回忌に当たる天正4年(1576)供養塔としてこの五輪塔を建立したとある。その後、慶長12年(1607年)亡母をあわせ葬った事を台石に追銘として刻んでいるといわれている。昭和36年に市の石造美術品に指定された。(笠岡の文化財より)

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